こんにちは、降幡です。

世の中には多くの目標達成の技術を紹介した書籍がありますが、
どれもこれも、どうやったら目標を達成できるのかに焦点が集まっていて、

そもそも目標と理想とは合っているか?

といったことについて言及しているものが少ないように感じます。

目標を達成したい人が多いことは確かでしょうから、その方法論が書かれている書籍が多いことは需要と供給の観点から考えれば当たり前のことなのでしょう。

ですが、そもそも目標が目標たり得ているかがずれていると後々大きく軌道修正しなければなりません。

ただ個人的には、

近道や遠回りというのはその人にとって必要な経験だったもので、人生に無駄なことはないという立場なので、

途中で「あ、こっちじゃない」と気づくこと自体にはなんの問題もないのですが、できることなら気づくのは早い方がいいかと思うので、今回の話をしようと思った次第です。

普段目標に向かって努力している時、そもそもの目標が間違っているんじゃないか?なんてことを普通は疑わないと思いますが、

努力しても結果が伴わない時、この「そもそも目標が間違っていないか?」を疑うことは大切なことだと思います。

これには2つの意味が込められていると思います。

1つは「目標は本当に達成しなければならないものなのか?」という問いかけ。
もう1つは「そもそも目標は目標足り得ているか?」という問いかけです。

1つ目の「目標は本当に達成しなければならないものなのか?」

という問いの背景にあるのは、

目標達成主義、または成果主義に対する疑いです。

個人の目標にしろ、組織や集団の目標にしろ、目標が達成できなかったら、その原因を考え改善することは普通の発想ですが、

そもそも設定した目標が正しいかどうかを疑うことはあまりしないでしょう。

私もそれまで、目標とは達成しなければならないもので、できないのは手段・方法が悪いか、努力が足りないからだというマッチョな思想で生きていたのです。

もう1つの「そもそも目標は目標足り得ていたのか?」という問いかけは、そもそも目標が適当であったかのかといった適当性を問うものです。

例えば、ダイエット。

昔も今も大変需要がありますね。テレビでもネットでもそれに関連したものは溢れかえっています。

ご存知かもしれませんが、

英語の「diet」を日本語に訳すと「食事」とか「食事制限」と出てきます。

つまり、

ダイエットとは本来食事の管理を意味しているのです。
間違ってもダイエット=痩せることではないのです。

ですから、野菜だけ食べていれば痩せるということではありませんし、
ウォーキングすれば痩せるというものでもありません。

何も考えずに食べるもの(摂取カロリー)を減らすと、必須栄養素が不足しますから、体の代謝は落ちるでしょうし、

闇雲に有酸素運動(ランニングやウィーキング)を増やせば、むしろ筋力が落ちてしまい太りやすい体質に変化する可能性もあります。

このくらいのことであれば、少し調べればわかることなんですが、

なぜこうもダイエットに関連したものが溢れかえっているのか考えてみると、
結局は目標が「痩せたい。」ってことじゃないからだと思うんです。

本当に求めているのは、

好きなものを好きなだけ食べて、辛い運動はせず、それでいて引き締まった体が欲しい。

ってことなんだと個人的には思いますが、どうでしょう?

もちろんそんな方法があるかどうかは別の話ですよ。

ここで言いたいのは、
「そもそもの目標が間違っていませんよね?」ということです。

目標、間違ってないよね?
それが目指していることなんだよね?

ここを強調しすぎるのも今の時代性にあっていないとは思いますが、

それでもここがずれてしまっていると、目標に対するアプローチが間違ってきたり、後々になって目指すべきものではなかったといったことが起こります。

そしてうまくいかない原因の多くはここに問題があるのではないかと最近では思っています。

ですから、まずは

目標や目的を考える時は、まずは「そもそも」を問うてみることをしてみてはいかがかと。

具体例をいくつかあげてみると、

英語を学びたいから英語の有名な私立大学に進学する。それなら海外へ行ったらいいんじゃないか?

病院では看護師が不足しているから看護師になる。

人は病院に行きたいのではなく、病気を治したいか健康でいたいのだから、予防医療を普及させれば問題は解決するんじゃないか?

いまだに学校では授業をしているけれど、動画のクオリティの方が高いなら知識は動画で学び、先生はアドバイザーの役割を担えばいいんじゃないか?

駐車場がなくて困るなら、駐車せずに、自動運転でその辺を周遊させておけばいいんじゃないか?

こういった発想ですね。

勉強について言えば、

そもそも自分が目指す理想像はそこなのか?
そして、それを達成する手段は進学だけなのか?

または目標は明確に定まっていても、
何の目的でこの参考書に取り組んでいるのか、
自分の能力と目標設定は適切だったのか、
なぜ自分はそれを目指していたのか、

みたいなことを考えるのは大切なことですね。

特別な時間を作れとういことではなくて、家族や友達との会話からそうした気づきを得ることもできるでしょう。

リスクをとってチャレンジする人、つまらなさそうに毎日を過ごす人
標準化からの脱却と以前落合陽一さんが話されていました。

これは明治以降、さらには戦前戦後と人々を標準化するために法律は作られ、教育がなされてきたが、今はこうした標準化するというパラダイムから脱却する必要があるといった内容です。

例えば、同一空間、同一音声で同一内容を学ぶ授業も、
技術的には音波、光波などの粒子、波をコントロールすることで
一人一人に異なる言語で、異なる映像を届けることが可能です。

それなら同じ授業を受ける必要はありませんし、同じ空間にいる必要もないかもしれません。

これも「これって無駄じゃない?」「こっちの方がいいよね。」ってことからスタートしているのです。

そして、これからの時代は、

そういったそもそもその仕事が必要なのか、または、こうした方がいいんじゃないか、こっちの方がスマートでしょって領域を考えることにこそ価値が生じて来ます。

そして、ロボットやAIなどのテクノロジーが解決できる領域はますます増え、
その流れは加速していきます。

ポジティブな見方をすれば、

そういった変化は人の職を奪うのではなく、
むしろ人がつらいと感じている仕事を減らし、
人生を充実させる時間が増えるということでもあり、

また、多様化が進めば進むほど、
今は無駄のように思われていることに価値が生じ、
そのことに専念できるということでもあります。

より人間理解が深い人や、人間ぽい人が人を幸せにできるということであり、
次の時代を作っていくということです。

もちろん、これからの10年、20年はテクノロジーへの過渡期の時代です。
だから一時的な混乱は必ず生じるでしょう。

政治、財政、医療、産業あらゆる分野で変化が起こり、それによって不利益を被る人もそれに反対する人も出てくるはずです。

テクノロジーの革新が良くも悪くも、人の身体機能の拡張や人間理解を加速させ、今まで以上に貧富の格差、学力の格差を生じさせる恐れもあります。

そんな時代だからこそ、

社会に出てからも学び、行動し続けることができるかどうかが今まで以上に問われるのではないかと思っています。

今や世界の有名大学では授業を無料で公開しています。

もちろん動画は無料で見れますが、多くの人がその存在を知らないですし、
他により面白いものがある中で自分から進んでそのような授業動画なんて見ないですよね、おそらく。

大学側の目的としては、一つには格差の軽減、もう一つは優秀な学生の確保です。

ほとんどの場合は後者の目的に流れてしまっており、
そのため情報は誰でも無料で手に入れられるのに、
その差はますます広がっていると矛盾した状況が生じています。

ここまでの話を踏まえた上で、僕の考えを話させてもらうと、

これからの未来では多様化は進み、その特定の分野での差は指数関数的に広がっていく。

そして、そこにチャンスを見いだし、
リスクをとってチャレンジする人とすべてを受動的に受け入れ、
つまらなさそうに毎日を過ごす人に分かれていくと僕は考えています。

そこで活きてくるのが冒頭で話したそもそもを問う力なんじゃないかと思うのです。

パラダイムに縛られてしまえばいいアイディアは生まれないでしょうし、
行動を起せばうまくいかないことや、それに伴う不安も焦りも生じます。

むしろそっちの困難の方が多いでしょう。

それでも自分を信じて目の前のことをやり続けることができるかどうか。

そう僕は信じています。

今回はこの辺で。それではまた。